室町時代の不動信仰Ⅰ 等凞上人と不動明王

清浄華院の不動信仰


室町時代の不動信仰Ⅰ 等凞上人と不動明王

等凞上人肖像(清浄華院蔵)

 

  • 等凞上人の活躍

 向阿上人の後、南北朝・室町時代の清浄華院は、皇室や室町幕府、そして万里小路家を始めとする公家衆の帰依を受けて、京都の浄土宗寺院の筆頭とも言える地位に躍り出ます。特に清浄華院十世・佛立恵照国師等凞上人の活躍は目覚しく、現在も清浄華院が大本山であるのは、この頃に貴顕の帰依を獲得し、浄土宗の地位を高め、定着させた功績によるものといってよいでしょう。

 等凞上人は公家の万里小路時房の支援を得て、称光天皇の臨終知識になるなど大活躍した人物として知られています。また、室町幕府六代将軍・足利義教とは将軍着任以前からの友人だったようで、彼の帰依も厚く、さらには伊勢貞国など幕府の武家からも帰依を受けていました。

 正長二年(1429)、等凞上人はその功績と清浄華院の由緒を認められ、後花園天皇より浄土宗初の香衣勅許を受けました。香衣とは朝廷の許可がないと着用できない権威ある衣であり、この事は上人のみならず浄土宗全体にとっても大変な名誉でした。
 現在浄土宗では緋や紫の衣をつけていますが、こうした色衣を許された最初の浄土宗僧侶は、等凞上人であるとされています。没後には禅宗の寺院でしか用いられていなかった国師号を諡られる事となり、これも浄土宗初の栄誉となりました。著作を残されていない事もあって、あまり注目されない方ですが、浄土宗史の上では非常に大切な人物です。
  

  • 等凞上人と不動明王
     
     そんな等凞上人も、不動明王とのご縁を伝えています。

 幼少の頃より和歌をすぐに覚えたり、仏像や経典に自然と手を合わせたりと利発だったという等凞上人ですが、ついに四歳で清浄華院八世敬法上人を師匠として出家、万里小路家出身の定玄上人の養育を受けて仏道修行に励むこととなりました。

 ところが六歳のとき、突然眼病をわずらってしまいます。薬も効果はなく、周囲の人々は大変心配しましたが、本人は苦しむ様子を見せず一心にお念仏を唱えていたといいます。

 そんな中、上人のある夜の夢の中に、奇妙な格好の僧侶が現れました。その僧侶は上人に、なにか手の組み方と呪文を教え、さらに上人の両目に向けて所作をしてくれました。
 そんな夢を見た日以降、上人が教わった作法を試すと、眼病はたちまち快方に向かいました。そして数ヶ月後には完全にもとの通りに治ってしまったといいます。

 その後、上人は一層仏道修行に励み、浄土のみならず天台・真言・禅・法相と、諸宗の門を叩いて、その法を修めました。そして二十三歳のとき、比叡山にて両部瑜伽の大法を受ける事になりました。
 その中の胎蔵界法の伝授を受けているとき、上人は僧侶に教わった手の組み方と呪文が、不動明王の印明であることに気付きました。さらに僧侶が上人の両目に向けて行った所作も、仏眼仏母の印明であったのでした。
 
 上人は幼い日より不動明王が自分を加護してくれていたことに気付き、以後ますます修行に励んだといいます。
 その後、清浄華院の住職となって泣不動尊像の存在に気付いたとき、上人は自分と不動明王との深いご縁に、きっと驚いたことでしょう。
 
 この頃、清浄華院では足利将軍家や皇室から寄進を受け、その寺格にふさわしいさまざまな寺宝を所蔵するようになります。室町将軍家が珍蔵していたと考えられている国宝・四明普悦筆『阿弥陀三尊像』などはその代表といえるでしょう。
 こうした寺宝は歴代の住職たちが「霊宝目録」といった形でその存在を記録しています。永享九年(1437)『清浄花院之由記』が最古の目録ですが、これにもやはり「三井寺泣不動智證大師御筆」として泣不動尊像が登場しています。以後もこうした「霊宝目録」は記され続けていますが、泣不動尊像は欠かさず記録されています。

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